メンヘラが生きるための日記

便所の落書きなので読まなくていいです。

とてもつらい(ただのはきだめ)

数ヶ月間とても調子がよかったのに、一気につらい気持ちになっている。

ここ数ヶ月はなんでもできるような感覚さえあった。脱メンヘラを目指してひたすらマッチョ思考になろうとして、今までできなかった料理や掃除を定期的にするようになったり、おしゃれしてみたり……このままいけばフォロワーともたくさんオフ会できそうだ、なんて思っていたのに。

幸せそうな家族を見るとつらい。彼らにもちろん非はない。
自分にはそうやって愛してくれるパートナーもいない。きっとこれからも現れないだろう。
パートナーが欲しければ自分が魅力的な人間になるしかない。しかし自分磨きをしてもその頃には見向きもされないおばさんになっている。
自分には問題だらけ。努力するしかないが、認知の歪みや根本的な性格は矯正するのに多大な労力と時間がかかる。そうして矯正できたとしても、もう時間的に手遅れ。

努力しても人並みになるのがやっとで、他人は「で?そんなの当たり前じゃんw」という反応がいいとこだろう。Twitterは優しい人が多いので過程を褒めてくれる人も多いが、他人なんてほとんどそんなものである。
一体何のために生きているのだろうか。



こんなことばかり考えている。

考えてもどうにもならないことはわかっている。変わりたいなら行動するしかない。前はそういう信念のもと行動できたが、今はちょっとむずかしい。
ふとした時に泣きたくなる。虚しさが溢れて止まらない。

まるで以前の自分に逆戻りしたようだ。変われていると思ったのになあ。

躁うつの診断は受けていないし先生に言ったとしても季節の変わり目だからなんて言われるのが関の山だろう。本当に季節の変わり目で調子が悪いだけならそのうち戻るだろうからいいんだけど。

数ヶ月調子がよかった。調子が悪いのは同じくらいの期間続くのだろうか。薬でやりすごすにしても、先の見えないことだから余計不安が募る。



これは本当に不思議なのだが、明らかに肉体的な調子も変わっている。精神的な病気なのに身体が明らかに重い。疲れやすくて何をしていてもしんどい。本当に自分が脳内物質に支配されていることを実感する。


とはいえ、まだ外に出たり元気を出そうとカラオケに行ったり、ゲームをしたりする余裕はあるらしい。これ以上落ちないようになんとか踏ん張りたい。

そうしてまた元気になってきたら色んなことをやろう。そうするしかないのだ。

「定型」と呼ぶことの危うさ

別に真面目に書くつもりはないのだけど、なんか見たからお気持ち表明。Twitterのやりすぎで文章力が退化している気がする。


発達界隈では発達障害などがなく、精神疾患などもない人達のことを「定型」と呼ぶ。ググったらWikipediaのページまで作られていた。もとは海外のコミュニティで使われていたようだ。
ja.wikipedia.org



これ自体やや排他的な呼び方ではあるが、発達障害という属性を語るときにそこに属さない人の呼称として便利であることは違いない。引っかかったのは、健常な人間を貶したり嘆いたりする文脈でも使われることが多いように見えたから。




発達障害のやつらはみんな時間にだらしない」「発達障害は部屋が汚い」「(仕事ができないことにたいして)これだから発達障害は……」と言われたらどうだろうか。

私は確かに……と納得してしまう反面、発達障害だって色んな人がいるんだから決めつけないでほしい! と思う。


今のは発達障害を持つ人の傾向としてよく語られる特徴をピックアップしてみたのだが、主語を外国人とか男女に変えてみればその危うさがわかると思う。





そもそも健常者が発達障害の人のことをこうしてひとくくりに非難することって、そんなに多いだろうか?



発達民のほうがこうした傾向は大きいと思う。

私の激狭な人間関係でも、理解がないなと思った人間は両親と祖母くらいだ。祖母に至っては一応私の前では理解しようとしてくれていたから、表立って全く理解がないと思ったのは両親くらいのものだ。


両親と年代が近いバイト先の上司ですら、そのあたりは配慮してくれた。


まあこういうのが認知され始めたのは最近だし、両親くらいの世代になると理解のない人間がいるのは当然だと思う。

だが全員ではない。私の人間関係がよほど恵まれているのでなければ、むしろ大多数の人々がノータッチか、大変だね〜と流すか、向き合おうとしてくれると思う。


一部の理解のない人間につらい思いをさせられた人のことを否定するわけではない。差別も実際にあるだろう。



だが一部の出来事を全体化してラベルを貼って批判するのは、差別にはあたらないのだろうか。定型にだって、仕事も趣味もバリバリできるマッチョもいればギリギリ発達障害の診断基準を満たさずひたすら苦しんでいる人もいる。




グラデーション状に境目なく広がる人間の特徴を一括に定型と称してdisるのは、ちょっとよくない行動ではないだろうか。


精神的に追い詰められてくると誰かを批判することで手っ取り早く安心を得たくなる(ブーメラン)。なので必要なのはこういう批判ではなく適切なケアなのだが……彼らが呼ぶ「定型」にも自分と同じような意見を持つ発達民にも、顰蹙を買って距離を取られてしまうのは想像に難くない。




まあ発達民に限らず特定の層をラベリングしてネガティブなことを言うのは偏見を助長してしまうからよくないのだが、そういうのに苦しんできた人たちこそ、他人に対して同じことをしてしまわないよう気をつけるべきじゃないかな、と思いました。

819日目 多嚢胞性卵巣症候群の疑いありでした

婦人科に行ってきた。

だいぶセンシティブな内容だが、別に自分は抵抗感がないしネットくらいでしか話す相手がいないので別にいいことにする。抵抗のある人は見なければいい。

私はピルを飲んでいる。誤解されがちだが、ピルは避妊目的だけに用いられるわけではない。自分は10代のころから生理不順で、20歳を過ぎても生理日が全く安定しなかった。また、20歳前後の頃はちょうど暴飲暴食して体重が10kg以上増えた頃でもあり、そのときは10ヶ月ほど生理が止まっていた。父親に何気なく話したら妊娠を疑われたのは苦い思い出だった。

今思えばその時点で婦人科を受診すべきだったのだが、太ったのが原因であることは明らかなので痩せろと言われるのが怖かったのだと思う。

ピルを飲み始めたのは一年ほど前。ネットに書かれているような副作用も不正出血もほとんどなく安定していた。自分にとって規則的に生理(正しくは排卵が止まっているため消退出血だが、ここではひとくくりに生理とする)が来るのは人生で初めてのことで、とても体調管理がしやすかった。

不正出血があったのは先月から。いや不正出血といっていいのかもわからない。
休薬日の一週間前、成分の入った錠剤を飲む最後の週から出血が始まるようになった。

出血は最初ごく少量でショーツも汚れないが、だんだん普段の生理と変わらない量になっていく。これが先月に続いて今月も起きたため、婦人科に行くことにした。

ピルでホルモンバランスが整っているはずなのになんで……ととても不安だった。考えられる原因は糖質制限を始めたことによるストレスとか、脂質の多い食事かな、と思ったが、去年案内が来ていた子宮頸がん検診を放置していたため、いい機会だと思ったのと、やはり放っておくのは精神衛生上よくない。

超音波検査は正直かなり楽しかった。自分の体の中はこうなっているんだ……と。痛みもそれほどではなく、教科書で見るような臓器が自分の中にもあるんだと実感してテンションが変になっていたと思う。

卵巣にはたくさんの黒い斑点があった。中心には何も写っていなかったが、外側は蓮の実みたいだ、と思った。

先生曰く、半年以上生理が来なかったりこの卵胞が連なっているのは多嚢胞性卵巣症候群の典型的な症状らしい。ただ診断基準は卵胞が10個以上なのに対し、私は8個くらいしかなかったのであくまで「疑い」だと。

血液検査もしたが、今ピルを飲んでいるので数値は正確なものが出ないかも、とのことだった。

不妊の原因にもなるので子供を望んでいる人には深刻なのだろうが、私は未来も子供を作らないと断言できるのでそこまで落ち込んではいない。

むしろ今まで生理不順だったり、太りやすく痩せにくかったり、声が低かったり毛深かったりしていた原因がわかって安心している。

体質的に糖尿病になりやすいことだけが心配だが、もうすでに糖質制限をしているので今後も続けられれば問題ないだろう。痩せることを目的として始めた糖質制限だが、つくづく持続可能な方法を確立できていてよかった。どちらにせよ治療法はピルによるホルモン療法と運動と食事制限くらいしかないから。ちなみにもう5kgは減った。

ピルは避妊目的でなければ保険が適用されるらしい。前に行った婦人科では問診と血圧のみで自費で処方されていたので、自分の知識不足と行動の遅さが悔やまれる。

糖質制限、頑張ろう。

742日目 親の役割って…

祖母と話していて弟の話になった。コンビニのバイトを始めたというのは聞いていた。すごい。頑張ってほしいと思う(掲載の許可は本人に取っています)。

だが、母親の方は早速「バイトじゃなくてちゃんとした職に就け」とうるさく言っているらしい。自分はもうとっくに親元から家出していて母親とは関わっていないから、久しぶりにとても腹立たしい気持ちになった。というか、今更親のことでムカつくなんて思っていなかった。

親として子供がきちんと自立してほしいというのは至極もっともな願いだ。だが、子供が毎日どんな気持ちで暮らしているのか、どんな困難を抱えているのか、理解しないまま理想を押し付けるのは害でしかない。

弟を残して家出することになったとき、心配じゃなかったと言えば嘘になる。だが弟は親から可愛がられているからまあ大丈夫だろうと楽観的になっていたのもまた事実。結果として自分が受けたのと同じことをされている。

当然だが血の繋がりがあろうと他人なのだから、弟は別にそんなことをされても平気なのかもしれない。真っ向からそれは違うと歯向かってしまう私と違って、母親のヒステリーも上手にかわしていたから。

なのでこれはあくまで自分が感じたことだ。自分の場合は高校卒業前から疲れ切っていて、就職も進学もする気力がなかった。どうしてかは思い出せない。ただ慢性的に疲れていて、誰も理解者がいなかった。

卒業してからはニートになった。父親がバイトの求人票を持ってきてくれたりするけど何もする気になれなかった。それでも母親が少し機嫌が悪くなればその話題ばかりで気が滅入ってしまっていたので、仕方なくバイトを始めた。無論上手くいかなかったけれど。

始めたばかりの頃から母親は頑張ってねなんて一言も言わなかった。早く結婚するか正社員になれ、ただし民間じゃダメだ、公務員や看護師など安定して働けるところにしろと。

公務員の試験ももちろん受けた。でも当時はもうコミュニケーション能力が重視されていて、もともと内気なうえにうつ状態の私は当然ながら受からない。看護師や薬剤師なんて大学に行かなきゃいけないし、学費は出してくれないと言うし、もう何もしたくなかった。

今も抑うつ状態は続いているものの、環境が変わったのでこうして振り返ることができる。だが勇気を出して家出していなかったら、きっと今頃自分は死んでいた。

車の免許もそうだ。私の友人達は私のポンコツぶりを知っているので、免許を取ったところで運転はできないだろうとわかっている。客観的に見てもそうだし、自分自身あの一歩間違えばどうなるかわからない巨大な鉄のかたまりのなかで的確な判断ができるようになるとは到底思えない。

だが親は、祖母でさえ、車の免許を取れとうるさい。免許を取るのもタダじゃない。お金を使って受からないものに挑戦するほど馬鹿じゃない。仮に免許を取れたとして、それはただの便利な身分証明書にしかならないだろう。車の購入費、維持費は? 事故って仮にも人を死なせたら? 総合的に考えて、自分のような者が免許を取るデメリットはメリットを大きく上回ると思う。

もちろん祖母にもそういうことだからあまり言わないでほしいと伝えたが、「でも男の子だし……」と。今の時代男女関係あるのか。いやこの辺は私が社会を知らなさすぎるからかもしれないが(いまだにオートマ限定煽りとかあるみたいだし)。

祖母のような人には当たり前にできることだからわからないのだろう。確かに自分だってやってみれば意外とできるのかもしれないが、やはりいつか事故を起こすという確信じみた直感は強くあるのだ。

親の役割は自分の理想や世間体を子供に押し付けることではない。子供の抱える苦しみにすら気が付かない人間など、ただの害悪でしかない。そして、成人しているのなら尚更、そんな未熟な人間にしがみつく理由もない。

子供が直面している困難を理解しようとし、複数の選択肢を提案するのが寄り添うものとしての正しい在り方だろう。知識というアドバンテージがあるのだから、それを提供して見えるものを増やしてあげるべきだと思う。それができないなら、せめて邪魔をしないことだ。

ここまで親というものをけなしておいて何だが、まあ親も結局は一人の人間で、親自身も見えていないことが多いのかもしれない。車なら東京のような交通網が発達しており一箇所に集まっているところであればなくとも生活はできる(それでもあったら便利だなと思うことは確かに多いが)。しかし東京に行ったことがないから、親はそっちの暮らしなんて想像できず、無理だと決めつけてしまうのだろう。

そんな人間のもとに産まれてしまった私達は不運であるが、それはしょうがない。自分の力で、あるいは他人の知識に頼って選択肢を増やしていくしかない。今はインターネットやSNSという力強い味方がいるので、情報は手に入りやすい。

まあそれすら妨害してくるのが毒親というもので、私達は気力を削られながら毒親の干渉を跳ね除けなければいけないのだから、普通に育ってきた人間より苦労することは確実で、本当に理不尽だと思う。

しかし味方はそこかしこにいる。自分もまだまだ未熟だし何も知らないし困難だらけであるが、それを忘れないようにしていきたい。

728日目 また泣いてしまった

〜〜〜このブログの方針として、とりあえずはただのお気持ち表明雑多ブログにする予定なので、これからは常体で書いていこうと思います〜〜〜


また泣いてしまった。最悪だ。

最後のトリガーはコンサータの患者登録カードを紛失したことだった。あれだけ主治医からなくさないでくれと念を押され、Twitterでもペラペラでなくしやすいからみんなが紛失防止のために工夫していることを情報共有していてくれていた。それを見ていたのにもかかわらず、薬局でおくすり手帳に挟まれて返却されたからまあ大丈夫だろうという楽観からなくしてしまった。防げたことなのに。わかっていたはずなのに。以前からこういうことばかりだ。だから仕事もできず、職場の人からも疎まれるんだろう……。

そんな考えが止まらず、悔しくて子供みたいに泣きじゃくってしまった。自傷もした。自分で自分の手の甲を力いっぱい何度も引っ掻く。今回はそんなに傷は深くなかったけれど。

普段ならカードの紛失くらい、落ち込みはすれどこんなに泣いたりしない。今回は感情が制御できなかった。モノに当たることは絶対したくないから、自分を傷つけた。

生理前から情緒不安定になる傾向はあるけれど、最近の不安や憂鬱さは度を越していると思う。たまりにたまったストレスが、そのちょっとしたことで爆発してしまったのだろう。

ゲームもお絵描きもできなくなってしまった。そういえばメンクリも1月は行けなかった。コンサータの処方が厳しくなった影響で主治医はきちんと周期的に来てほしいようだが、できそうにない。申し訳ない。フォロワーはそんなとき優しい言葉をかけてくれるのだけど、こうもずっとメンがヘラって荒ぶっていればそのうち愛想も尽きる。



泣くことは、時に顰蹙を買う。理解はしているしそれで事態が好転するとは思っていないけれど、それでも理性に関係なく涙が出てきてしまうことがある。あまりわかってはもらえないが……。

たとえばイライラしている人に強い口調で何かを言われたときや、大きな物音を立てられたとき。たいていイライラの原因は自分にあるので、そういう時に泣くと余計相手をイラつかせてしまうのだが、コントロールの効くものではない。

多分これは虐待されてきた過去に関係があると思う。日常的に怒鳴られたりしていたから少しは慣れてほしいものだが、慣れるどころか怖くて仕方がない。

なにか不満があるときも言語化が下手くそなので泣いてしまう。ストレスが臨界に達した時も泣きじゃくる。自分だってどうしたらいいかわからない、泣かずに済むなら泣きたくないのに。

泣いたあとは本当に疲れる。涙活なんて言葉があるが、泣きすぎて頭が痛くて仕方ないし目も痛くて全身がだるい。抗不安薬を多めに飲んで寝れば多少楽になるが、この間はそれでも頭痛が収まらなかった。

慢性的に体調不良で、ただ生きているだけでも辛い、他人と関われば不快にさせる。本当に死にたい。

けれどきっとこれは甘えなんだろう。働いている人はもっと毎日がつらい。発達もうつ状態もどうせ自己申告なんでしょなんて言われてしまうくらいだ。関わる人みんなと上手くいかないのは自分に原因があるからだし、自分が悲劇のヒロインを気取っているだけだ。現に主治医はカウンセリングは必要ないと言っている。苦しみは気のせいだ。甘えなんだ。


ちなみに、登録カードは幸運にも見つかった。別件で罹った病院の薬局に落としていたのを預かってくれていた。これはほんの少し嬉しかったかもしれない。これからは気をつけることにする。

372日目 メールが来たので

こんにちは、えり(@fuchs_tagebuch)です。

「一年前のブログを振り返ってみましょう」みたいなメールが来たので振り返ってみることにしました。

eri-mazai.hatenablog.com

めっちゃ病んでて草。


いや、しょうがないですね。あの頃辛かったですし。

もうあれから一年も経つのですね。自殺も結局やっていないし、やる気も失せちゃいました。今は好きなことをやって楽しく過ごせているので、自分でもびっくりするくらい回復しています。まあそれも支えてくれる人達のおかげなんですけど。

バレンタインは日頃お世話になっている方々に渡しました。

一ヶ月くらい更新してなかったのですが変わらず元気にやっています。本を読んだり、創作したり。きっと何もせずにいたら一年前と同じように思考の渦に呑まれてメンタルボロボロ状態なのでしょうが、何も考えずに熱中できることがあるっていいですね。

昨日コンサータを休薬して今日からまた飲み始めたのですが、今日は頭痛と頭がなんとなく覚醒していない感じがあります。気圧による体調の変化が起きるほど敏感じゃないと思っていたのですが、案外影響されてるのかもしれません。気圧確認できるアプリを見ていたら「警戒」の表示がありました。

花粉ももう飛び出しているのですね。確かに暖かい日もあるので、花粉症の人は辛いだろうなあと思うと同時に自分もいつ発症するか分からないのが怖いです。沢山薬飲んでるのでこれ以上増やすと飲み合わせが心配です……。

人生何があるかわからないですね。こうして元気にこれからもやっていけることを願うばかりです。

336日目 読書をしました

こんにちは、えり(@fuchs_tagebuch)です。

昨日は模写をしたあと、疲れたので読書をしました。二ヶ月くらい前に三分の一くらい読んで放置していた「すばらしい新世界」を昨日の夜一気に最後まで読み進めました。

あれ、今までジョージ・オーウェル作だと思ってたんですけど全然別人でした。読書エアプを晒してしまった……恥ずかしい。

読む前に大まかなあらすじや面白い所を聞いていたのでかなり楽しく読めました。考察とか批評とか大層なことは読解力のない私にはできないので適当に感想をメモしておきます。一度読んだだけで記憶もガバガバなので、的外れなこと言ってるかもしれませんが大目に見てください。

一番おもしろかったのはやはり文明社会のボスであるムスタファ・モンドと野蛮人であるジョンが相見えるところでしたね。ジョンは読者の価値観に近い存在で、彼が統制官と話しているシーンはいわばあの世界のネタバレというか、狂っているともとられる世界のボスと自分が対峙しているようでテンションが上がりました。私は全くシェイクスピアを知らないのですが、作品の一節を引用しながらの応酬はなんかよくわからないけどかっこよかったです(作文)

しかし複雑で面白いなあと思ったのは、彼らは確かに異なる価値観の代表なのですが、文明社会と野蛮人の単純な二項対立として描かれているわけではないところでした。ムスタファ・モンドはかつて優秀な物理学者で、文明社会では猥褻で忌むべきものとされる芸術や宗教に造詣が深い。一方ジョンも、育ったところこそ未開の地ですが、母親は文明社会から来た人間で小さい頃から「すばらしい新世界」のことを聞かされていた。どちらも文明社会、野蛮人両方の要素を備えているのです。多分。

危険分子だと突き放すことはせず、ある時はジョンの訴えを肯定しながらこの世界がいかに安定しているかを説いた。結局、ジョンは彼に勝てなかったのだと思っています。意志は貫いたけど、相手の思想を覆すだけの反論はできなかった。その意志もやがて強迫観念的に自身を追い詰め、興味本位でやってくる人々に精神をやられて自ら命を絶ってしまった……。

まあ、ジョンはそれでもよくやったと思います。母親がよそ者だったことからのけものにされ、母親の苦しみを見続け、1人で何もかも常識はずれの世界に放り込まれて、正常でいられる方がおかしいですからね。

個人的にはバーナードがお気に入りです。彼が一番人間臭いというか……コンプレックスを抱えて疎外感を抱え、条件づけに従って生きる人たちを冷笑的に見ていた彼も、周囲からちやほやされはじめると途端に享楽に溺れて埋没してしまうところとか、すごくよかったです。小物っぽくて。

まあしょうがないんですけどね。バーナードも皆と同じように条件づけセンターで育ち、文明社会の価値観を植え付けられていて、シェイクスピアや難しい科学のことなんかは全く知らないのです。ただ少し皆と外見が違っていたから劣等感に苛まれ鬱屈した気持ちを抱えていただけで、反動でああなってしまうのは当然だと思います。


読む前からあらすじを聞いて「え、なにそれ理想の社会じゃん」と思っていた私ですが、読み終わった後もそれは変わりませんでした。科学技術の発展や為政者への風刺としてこの作品が書かれたらしいので作者の意図とは異なってしまうかもしれないですが、絶対にあの社会のほうがいいと私は思います。

歳を重ねた人ほど、ムスタファ・モンド(というか文明側)の思想に共感してしまうのではないかと思います。私は共感しまくりました。特にこれ。

現実の幸福は、みじめな状態の過剰補償に比べればつねに卑小なものだ。また言うまでもなく安定性には不安定性のような派手なところがない。現状への満足には不運との果敢な闘いの持つ壮大さがなく、誘惑との苦闘や、情熱や疑いへの致命的な敗北傷が持つ華麗さがない。幸福とは偉大なものではないんだ

もう……それな〜〜!!!です。

現実で好まれるのはいつもジョンのような思想です。自由を求めて戦い、傷つく感動の物語。でも、空想の世界ならいざ知らず、現実に生きる私達がそんな不安定な環境にわざわざ身を置くのは自分を傷つけているようなものだと思います。

こういうことを考える時、以前読んだ進撃の巨人やサンホラのmoiraを連想します。彼らは自由を求めたが、その先にあったのはさらなる苦難の道でした。自由を欲したのは現状が不満だからです。敵に虐げられるのはたくさんだと、幸せになりたいと立ち上がったのに、幸せにはなれなかった。自由と幸福は両立しないのです。

現実の世界で考えてみても同じです。もちろん、不当な抑圧や暴力を肯定するわけではありません。長い歴史の中で人類が自由を掲げたのはそれらから脱するためですが、しかし自由になって人々が幸福になったかというと疑問です。いくらかマシになったとしても、それは不完全な幸福です。

自由とは自分の不始末や能力の違いを、全て自分が背負わなければいけないということです。障害があっても、人より容姿が劣っていても、勉強ができなくても全部自分の問題、そして一部の有能なものだけが美味しいところを持っていく。この格差は、どうやってもなくなりません。弱いものは弱いまま生きなければならず、強いものは好きにできる。なるほど自由は強者にとって都合のいいものですね。

すばらしい新世界の仕組みにも格差というか、身分制度がかなりはっきりあります。しかし条件づけのおかげで下の身分の者が上の身分の者に敵対心や羨望を抱いたりはしないようになっています。

ある意味では洗脳に近いものですが、それで社会が安定し、個人も幸福に生きられているのです。そして何かあれば合法麻薬を飲んで何もかも忘れられる。苦しみが絶えず生き続けなければならない現実と、倫理や道徳なんてあったものじゃないけど現状に満足したまま死ぬまで過ごせる社会、幸福なのはどちらなのでしょうかね?不幸になる権利は、本当に必要なのでしょうか?

またヘルムホルツは文明の娯楽を「白痴のしゃべる物語」と揶揄しましたが、幸福であるためにはある程度白痴的であることも必要だな、と思いました。いつも私は無知は罪であると信じてやみませんが、それは自己防衛のためです。自由な社会においては、情報を多く持っていなければ食い物にされてしまう。

かつて科学に携わり真理を追い求めたムスタファ・モンドと何も知らない労働者ではどちらが幸せそうかなど一目瞭然です。何も考えず、整えられたレールの上を走っている方が絶対に幸せなのです。それは人間としてどうなのか?と思う自分もいますが、それは現実社会で培われた価値観に過ぎませんから、無視すべきです。

誰も苦しい経験などしたくない、人間は幸せに生きるべきだという考えが根底にあるので、あの世界はまさに理想郷に見えました。フリーセックスだけはちょっと……と思いましたが、やはりそれもあの世界に生きていれば抱くことすらない考えです。

疑問点をいくつか。上の文章で文明社会を新世界と書こうか迷ったのですが、すばらしい新世界とは、この文明社会ではないのかな、と思いました。ジョンが母親から聞いて膨らませた想像の世界、それがすばらしい新世界なのかなあと。結局文明社会はジョンの心のなかにあった新世界とはかけ離れていたわけですが。現実との乖離に直面するたび「すばらしい新世界!」と心のなかで言っていたので、なんか皮肉的な意味もあるのかな?

あと、最後まで読んでも時折出てくるミランダという女性の正体はわかりませんでした。見落としているのでしょうか。

それから、野蛮人で危険な思想を持つジョンを実験と称して島送りにしなかったムスタファ・モンドの判断も?でした。彼が活動したら社会の安定性が揺らいでしまうかもしれないのに放置したのは、民衆が彼の思想を理解するだけの能力を持たないと思ったからなんですかね?結局彼は物珍しい動物でも見るように消費されてしまったわけで、そこまで見通していたならすごいですね。

とまあ、こんなことを考えていました。多分着目すべき点はもっと他のことだと思うのですが、あえて間違う恐怖に立ち向かってみました。

あーーめっちゃ書いた。夢小説は1000文字も進まないのに……。

とにかく面白かったです。フォロワーさんからおすすめされた小説もたくさんあるので、今まで本を読む習慣がなかった分、これからも色んな本を読んでいきたいです。おわり