「定型」と呼ぶことの危うさ
別に真面目に書くつもりはないのだけど、なんか見たからお気持ち表明。Twitterのやりすぎで文章力が退化している気がする。
発達界隈では発達障害などがなく、精神疾患などもない人達のことを「定型」と呼ぶ。ググったらWikipediaのページまで作られていた。もとは海外のコミュニティで使われていたようだ。
ja.wikipedia.org
これ自体やや排他的な呼び方ではあるが、発達障害という属性を語るときにそこに属さない人の呼称として便利であることは違いない。引っかかったのは、健常な人間を貶したり嘆いたりする文脈でも使われることが多いように見えたから。
「発達障害のやつらはみんな時間にだらしない」「発達障害は部屋が汚い」「(仕事ができないことにたいして)これだから発達障害は……」と言われたらどうだろうか。
私は確かに……と納得してしまう反面、発達障害だって色んな人がいるんだから決めつけないでほしい! と思う。
今のは発達障害を持つ人の傾向としてよく語られる特徴をピックアップしてみたのだが、主語を外国人とか男女に変えてみればその危うさがわかると思う。
そもそも健常者が発達障害の人のことをこうしてひとくくりに非難することって、そんなに多いだろうか?
発達民のほうがこうした傾向は大きいと思う。
私の激狭な人間関係でも、理解がないなと思った人間は両親と祖母くらいだ。祖母に至っては一応私の前では理解しようとしてくれていたから、表立って全く理解がないと思ったのは両親くらいのものだ。
両親と年代が近いバイト先の上司ですら、そのあたりは配慮してくれた。
まあこういうのが認知され始めたのは最近だし、両親くらいの世代になると理解のない人間がいるのは当然だと思う。
だが全員ではない。私の人間関係がよほど恵まれているのでなければ、むしろ大多数の人々がノータッチか、大変だね〜と流すか、向き合おうとしてくれると思う。
一部の理解のない人間につらい思いをさせられた人のことを否定するわけではない。差別も実際にあるだろう。
だが一部の出来事を全体化してラベルを貼って批判するのは、差別にはあたらないのだろうか。定型にだって、仕事も趣味もバリバリできるマッチョもいればギリギリ発達障害の診断基準を満たさずひたすら苦しんでいる人もいる。
グラデーション状に境目なく広がる人間の特徴を一括に定型と称してdisるのは、ちょっとよくない行動ではないだろうか。
精神的に追い詰められてくると誰かを批判することで手っ取り早く安心を得たくなる(ブーメラン)。なので必要なのはこういう批判ではなく適切なケアなのだが……彼らが呼ぶ「定型」にも自分と同じような意見を持つ発達民にも、顰蹙を買って距離を取られてしまうのは想像に難くない。
まあ発達民に限らず特定の層をラベリングしてネガティブなことを言うのは偏見を助長してしまうからよくないのだが、そういうのに苦しんできた人たちこそ、他人に対して同じことをしてしまわないよう気をつけるべきじゃないかな、と思いました。