メンヘラが生きるための日記

便所の落書きなので読まなくていいです。

毒親とアダルトチルドレン

こんにちは、えり(@viola_alauda)です。
発達障害に関することについて記述してきたこのブログですが、今日は少しテーマを変えてみます。

それは、私の過去、家庭環境についてです。

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私の親は毒親

少し前に「毒親」という言葉が流行りました。
それは虐待まではいかなくとも、苦しい思いをして幼少期を生き延びた人々の心の叫びでもありました。
さて、ここでいう毒親とは大まかにいくつかのグループに分けることができると言われています。*1

①過干渉、統制型の親(最も訴えが多い)
②無視親(ネグレクト)
③ケダモノのような親(激しい暴力や暴言・性的虐待など、心身の健康、時には生命にも関わるもの)
④病気の親(精神障害、社会性人格障害等)
毒親 - Wikipedia

私の育った家庭環境はまぎれもなく機能不全家庭、いいかえれば毒親の支配する環境だったと思いますし、幸いながら今日まで生き延びることができているものの虐待されて育ったとすら思えます。
悲劇のヒロインでもなんでもなく、ネットの知識や同じ苦しみを持つ仲間と関わるようになり、そう確信するに至ったのです。

暴力を受けて育った幼少期

私の一番古い記憶は、暗い部屋で母親に殴られる父親を怯えながら見ているというものです。
一般的なDVは男性側が加害者になりがちですが、我が家(とも呼びたくないですが)は完全に立場が逆転していました。
母親が絶対的な権力を持ち、父親や私は逆らえない。逆らおうものなら殴られ、蹴られ、物を投げられ……家の中はめちゃくちゃになります。
暴力を以って母親は家庭内を支配していたのです。
もちろん力比べをすれば勝つのは父親の方でしょうが、父親は決して母親に手をあげようとはしませんでした。それは抵抗しても余計事態が悪化するという諦めか、精神的に服従させられていたか、はたまた共依存によるものか……連絡を絶った今では知る由もありませんが。
殴られた衝撃でクローゼットの扉がへこみ、見ていた私まで「視線がムカつく」という理由で髪を引っ張られたり平手を食らわされたりしました。
幾度となくこういった暴力を振るわれましたが、父親が助けてくれることはありませんでした。それどころか母親の味方をされ、幼いながら守ってくれる大人はいないんだな、ということを痛感しました。
小学校にあがる前、幼稚園の頃のことでした。

歪んだ家庭環境

母親は専業主婦でした。
父親は公務員。稼いでいるのは父親にもかかわらず、お金も含めて母親が全ての決定権を握り、母親の意思に反する行動をしたり許可を取らないで勝手なことをしようものなら容赦なく殴られたり、罵声とともに蹴られたり、顔を引っ叩かれたり、暗い部屋に閉じ込められる……
お金事情は一般的に折半制だったりお小遣い制だったりしますが、私の家はそれすらありませんでした。
つまり、父親に自由に使えるお金は一銭もなかったのです。ただお金を稼いでくるだけ。
強いて使えるお金といえば食材などの買い物費とタバコ代くらいでしょうか。
一方の母親は、一つ何千円もする化粧品を買ったり一日に何本もタバコを吸ったり、やりたい放題でした。
私も親からお小遣いやお年玉は一回ももらったことがありません。お金がないからという理由で食事すらできないこともしばしばでした。
また、最初に母親は専業主婦と書きましたが、家事らしいことはほとんどしませんでした。
料理をしないのでご飯はいつもコンビニ弁当やスーパーの惣菜でしたし、掃除もしないので部屋は汚部屋同然です。
洗濯だけは唯一していましたが頻度が少ないのでカゴから洗濯物が溢れ返り、怒られるのはいつも私でした。理由は「服を着すぎ」。下着は毎日取り替えるものですし、学校に行っていれば服も毎日違うものを着ていきます。しかし洗濯をしないで使いまわしていると今度は汚いから洗濯しろと怒られるのです。一体私はどうすればよかったのでしょうか?

中学にあがって

私が大きくなるにつれ暴力は少なくなりましたが、それでも機嫌の悪い時には殴られ続けましたし、私の見た目や行動を貶す発言は相変わらず続いていました。
そんな私の心の支えだったのが、度々家に来ては世話を焼いてくれる母方の祖母(母親の母親)でした。
祖母は家が近かったので車で来てはお菓子を買ってくれたり晩ごはんを持ってきてくれたり、汚部屋と化した部屋を一緒に掃除したりもしました。また、週末は私が祖母の家に行って寝泊まりしました。祖母の家では手作りの温かい料理が食べられ、母親の顔色を伺って怯える必要もなかったのです。
しかし、母親はそれが気に入らないようでした。
祖母から合鍵を取り上げて私とも関われないよう、一切の連絡を絶ったのです。
私はひどく反発しましたが、それがまた母親の逆鱗に触れたようで。言い争い殴られたあと私は喋ることを禁じられました。
直接会話することはもちろん、私が少しでも言葉を発したり笑ったりするとうるさいと怒鳴られるのです。
私はただ、反抗できない悔しさに涙を流すことしかできませんでした。

命の危機を感じた事件

高校生になると修学旅行で道外(北海道出身です)へ行きます。水道代や学級費ですらもったいないと言われていたのに修学旅行なんて、とだいぶ憂鬱でしたが、なんとか行くことになりました。
修学旅行自体はとても楽しかったのですが、帰って来たあと、その事件は起こりました。
目的地についたとき、私は友人とおしゃべりをしていて親に到着したことを連絡し忘れていたのです。尤も、言われてもいないのに親にいちいち連絡する義務があるかどうかは疑問ですが。
帰宅してそのことをいきなり怒鳴られ、そんなこと言われていないと反論してしまったがためにまた暴力が始まりました。
正直暴力は少なくなっていたので油断していました。その時のキレ方はとくにすさまじく、食べていた弁当をひっくり返され鼻血が出るまで殴られ続け部屋の中がめちゃくちゃになってから、父親がようやく止めに入ってくれました。(父親もとばっちりでなぐられていました)
私は本能的に殺されると思い、友達の家に駆け込みました。
あのとき落ち着いて受け入れてくれた友達には感謝しかありません。
その後、半ば強引に父親に連れ戻され、私が謝って事態は収束したのですが、あのときは本当に怖かったことを覚えています。

鬱とインターネット

高校は地元の進学校に入学しました。大学に行って早く親元から離れたい、その一心でした。
しかしひどく世間知らずだった私は大学に行くにはたくさんのお金が必要なこと、奨学金という制度もあるが将来の自分の負債になることを三年になってようやく知りました。
ご飯代すら危ういので親に貯金なんてありません。奨学金も受けられても将来立派な職業に就けるとは限りません。そもそもそこまでしてやりたいことって、私にはない……
己の知識不足を激しく悔やみました。もともと無気力気味な私でしたがこのころからそれが一層加速し、受験のころにはなにも手につかなくなっていました。結局大学は落ち、諦めて就職の道を探すことになりました。
ところで、私のここまでの知識不足はいま考えてみれば当然のような気がします。
スマホが普及し始めたのが高校の頃だったと記憶していますが、それまでは自分の携帯はもちろん、パソコンすら家にはありませんでした。というか、ネット環境そのものがなかったのです。
唯一母親だけはガラケーを持っていて2ちゃんをやっていたようですが、私達が使えるはずもありませんでした。その状態がつい2、3年前まで続いていたのですから、今考えると恐ろしいほど情報から断絶された環境にいたのですね。
初めてスマホを持ったのは、4つ下の弟でした。
私は高校を卒業したので自分で働けと言われて買ってもらえず、とても悔しかったことを覚えています。優遇されるのはいつも弟でした。
働こうにもトイレすら行けないほど精神的に弱っており、受けたバイトの面接は全て落ちてしまいうつに更に拍車がかかりました。やっと受かったバイトもASD特性から対人恐怖症のようになりADHD特性からミスばかり。とても就活なんてできる精神状態ではなく、弟から借りたスマホでいつも自殺方法を調べるほど精神状態は悪化していました。実際、ヘリウム自殺のための道具は全てそろえており、ヘリウム缶以外は今でも手元にあります。

少しの勇気と耐え難い葛藤

そのころうつや発達障害毒親に苦しんでいる人を知り、衝撃を受けました。
私だけじゃなかった。私の苦しみは甘えなんかじゃなかった。そしてなにより、社会でうまくいかないのは障害の可能性があるということに、小さな安堵を覚えました。
しかしそのことを親に相談すると、笑われてしまいました。
お前は知能に問題ないんだから発達障害ではない(知的障害と発達障害は必ずしも関係があるわけではないので、これは誤りです)、甘えるな、言い訳をするな……
確かに確証がもてないので、この段階では甘えかもという考えは捨てきれませんでした。ですが今までの親の振る舞いに反発を覚えていた私は、親に内緒で精神科に行くことを決意します。
ミスが多いながらも働けていたので、出勤と言って精神科を受診しました。
そこで先生に全てを打ち明けました。辛かったことも悲しかったことも、全部。
先生は優しく聞いてくれました。そして私はうつ状態であること、はやく親元から離れたほうがいいということを言われました。
人生は案外どうにでもなります。しかし、視野の狭かった私はまだ親の言うことに縛られていました。
公務員にならなきゃやっていけない、きちんと自立するまでは一人暮らしなんて無理。そう言われていたのです。
バイトはミスばかり、仲間はずれにされてクタクタになり、それだけで手一杯なのに母親は早く働いて(=正社員になって)家を出て行けと責め立てます。しかし民間就職は許されず、公務員にしかなってはいけない。私の心はもうボロボロでした。
耐えきれなくなって、私は家出を決意しました。
失敗したら自殺すればいいかと、半ばあきらめの境地でした。
しかし私にとっては初めての反抗です。母親にバレたら何をされるか……
そんな葛藤をのりこえ、私は連絡の途絶えていた祖母のもとへと身を寄せました。役所の手続きなども全て調べて、周到に準備を重ねた上での行動でした。

毒親の支配を乗り越えて

親は意外にも、家出した私に対してなんのアクションもありませんでした。
そして大きい精神病院で正式に発達障害の診断を受け、一人暮らしをするために上京して今に至ります。
毒親から物理的な距離は取れたものの、実家にいたころ自暴自棄になって暴食して増えた体重は戻っていないですし、人とご飯を食べたり仲良くすることに異常な恐怖を覚える、いわば心の傷は癒えていません。
アダルトチルドレンという言葉がありますが、私はこの先もずっと親に植え付けられたトラウマや恐怖と戦っていかなければならないでしょう。
発達障害についても、私は遺伝だと思っています。少なくとも(精神科の先生も仰っていましたが)母親はなんらかの精神疾患を抱えているのではないかと思います。本人が気づくかは別として。
ようやく他人の支配から抜け出して、自分の人生を歩む基盤が整ったような気がします。これからは自分の特性をより理解し、私らしい生き方を模索したいと思っています。

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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*1:出典:斎藤学、2018、「「毒親と子どもたち」論文特集「親子関係の解剖学~その闇に迫る」」、『Webマガジン「みらい」』(2)、日立財団 pp. 1-8